ある日突然、工事現場の大きな音などをきっかけに愛犬が散歩を怖がるようになり、「私のせいだ…」とご自身を責めているのではないでしょうか。リードを見ただけで震え、玄関から一歩も動けなくなってしまった愛犬の姿に、どうすればいいのかと途方に暮れ、焦りと不安で胸が張り裂けそうになっているかもしれません。

はじめまして。都内で動物病院の院長をしております、獣医師の長谷川恵です。
この記事は、単に犬のトレーニング法を解説するものではありません。犬の「心の怪我」を科学的に癒し、同時に飼い主であるあなたの「罪悪感と不安」をも軽くするための、具体的なリハビリ計画です。
読み終える頃には、その焦りが希望に変わり、今日から何をすべきかが明確になっているはずです。
この記事の監修者
長谷川 恵(はせがわ めぐみ)
獣医師 / 1級愛玩動物飼養管理士
都内動物病院院長。大型犬の診療経験も豊富で、飼育環境の悩みやしつけ相談にも数多く乗っている。「ケージは閉じ込める場所ではなく、愛犬が安心できる自分のお部屋です」という考えのもと、クレートトレーニングの重要性や、トイレの失敗を防ぐ具体的な環境づくりのアドバイスを行っている。
まず、罪悪感を手放すことから始めましょう|犬の恐怖は「心の怪我」です
クリニックの診察室で、私はいつも同じ言葉を耳にします。「うちの子が怖がるのは、私のせいなんです…」。多くの飼い主さんが、そうご自身を責めています。ですが、まず最初にお伝えしたいのです。それは、断じてあなたのせいではありません。
「うちの子はもう元に戻れないのでしょうか?」というご質問もよく受けますが、大丈夫です。希望を捨てないでください。
大きな音などによるトラウマは、犬にとって人間が交通事故に遭うようなものです。それは「しつけ」や「わがまま」の問題ではなく、治療が必要な「心の怪我」に他なりません。この問題は、飼い主さんの愛情や努力が足りないから起きるのではなく、専門的なケアが必要な医学的な状態なのです。
ですから、この問題の解決は、まずあなたが「自分のせいだ」という重荷を下ろすことから始まります。愛犬の行動は、あなたを困らせようとしているのではなく、「怖いよ、助けて」という必死のSOSサインです。そのサインに気づけたあなたは、すでに素晴らしい飼い主です。
【獣医師が解説】散歩の恐怖を克服する、たった2つの科学的アプローチ

では、具体的にどうすればその「心の怪我」を癒せるのでしょうか。精神論ではなく、私たち獣医行動診療科の専門家が治療の柱として用いる、科学的根拠に基づいた2つのアプローチをご紹介します。
この2つのアプローチは、いわば治療の両輪です。「系統的脱感作(けいとうてきだつかんさ)」と「拮抗条件付け(きっこうじょうけんづけ)」は、常に組み合わせて使うことで最大の効果を発揮する、治療の核となるペアなのです。
- 系統的脱感作:恐怖の階段を一段ずつ作る
これは、愛犬が「全く怖がらないレベル」の刺激から始め、少しずつ段階的に慣らしていく方法です。いきなり散歩に行くのではなく、「玄関を見る」→「玄関に近づく」→「ドアノブに触る」というように、恐怖の対象を赤ちゃん用の低い階段のように細かく分解していきます。 - 拮抗条件付け:ご褒美のエレベーターで登る
これは、怖いもの(刺激)と、それを上回る「最高に嬉しいこと(例:特別なおやつ)」を結びつけることで、犬の感情を「怖い」から「楽しい・嬉しい」へと上書きしていく方法です。先ほどの階段の各段をクリアするたびに、ご褒美というエレベーターに乗せてあげるイメージです。
この2つを組み合わせることで、「怖いと思っていたものが、実は良いことの前触れだった」と愛犬が学習し、自信を取り戻していくのです。

今日から始める「おうちリハビリ」5つのステップ|焦らない・比べない・叱らない

理屈がわかったら、いよいよ実践です。ここからは、ご自宅で今日から始められる具体的なリハビリ計画を5つのステップでご紹介します。大切な心構えは「焦らない・比べない・叱らない」です。愛犬のペースを何よりも尊重してください。
そして、このリハビリで最も大切なことは、飼い主であるあなた自身がリラックスすることです。あなたの不安は、リードを通じて愛犬のストレスサインを助長し、それを見たあなたがさらに不安になるという悪循環を生んでしまうからです。だからこそ、これから紹介するステップは『遊び』だと思って、楽しむ気持ちで取り組んでみてください。
準備するもの:
- 高価値トリーツ: 普段のフードではなく、愛犬が目の色を変えるくらい大好きな特別なおやつ(茹でたササミ、チーズ、レバーペーストなど)を小さくカットして用意します。
Step 1:玄関を見るだけで、おやつ
リビングなど、愛犬がリラックスできる場所からスタートします。あなたが玄関の方を指さし、愛犬がそちらを一瞬でも見たら、すかさず「イイコ!」と褒めておやつをあげます。これを数回繰り返します。
- ポイント: まだ玄関には近づきません。見るだけでOKです。
Step 2:玄関に一歩近づいて、おやつ
Step 1が余裕でできるようになったら、次は玄関に向かって一歩だけ近づいてみましょう。愛犬がついてきたら、すぐに褒めておやつをあげ、リビングに戻ります。
- 注意点: ここで犬がストレスサイン(あくび、体を掻く、鼻を舐めるなど)を見せたら、それは「ちょっと怖いかも」の合図です。無理強いせず、すぐにStep 1に戻りましょう。
Step 3:ドアの前で、おやつ
玄関のドアの前までリラックスして行けるようになったら、ドアの前で数秒間落ち着いていられたら褒めておやつをあげます。
- NG行動: ここで焦ってリードを持つと、これまでの努力が水の泡になることがあります。リードはまだ登場させません。
✍️ 専門家の経験からの一言アドバイス
【結論】: リードやハーネスは、犬が完全にリラックスできるようになるまで見せないでください。
なぜなら、多くの飼い主さんが良かれと思って「さあ、行こう!」とリードを見せてしまいますが、犬にとってリードは「怖い散歩の合図」として記憶されています。リハビリの途中でリードを見せることは、怪我が治りかけの時に、事故現場の映像を見せるようなものです。この知見が、あなたの成功の助けになれば幸いです。
Step 4:ドアノブに触る音を聞かせて、おやつ
ドアの前で落ち着けるようになったら、次はあなたがドアノブにカチャリと触るだけ。その音を聞いても愛犬が落ち着いていたら、最大級に褒めて特別なおやつをあげましょう。
Step 5:ドアを1cmだけ開けて、おやつ
最後のステップです。ドアをほんの少しだけ開け、外の匂いを嗅がせます。すぐにドアを閉め、落ち着いていられたら褒めておやつをあげます。
これらのステップは、1日で全てやろうとしないでください。1週間かけてStep 1だけでも十分です。大切なのは、常に「怖がる一歩手前」で終わり、成功体験を積み重ねてあげることです。
その前に、たった一つ。獣医師として必ず確認してほしいこと

ここまで心のケアについてお話ししてきましたが、行動診療を専門とする獣医師として、どうしてもお伝えしなければならないことがあります。それは、行動の急な変化の裏に、診断されていない「隠れた身体的痛み」が潜んでいる可能性があるということです。
私たち獣医師は、犬の行動に変化が見られた時、まず心ではなく体を疑います。例えば、
- 膝の関節が痛くて、歩きたくない(小型犬に多い膝蓋骨脱臼など)
- 首のヘルニアで、首輪をつけられるのが辛い
- 歯周病がひどく、口周りに触れられるのを嫌がる
といったケースは決して珍しくありません。
もし愛犬が痛みを抱えていたとしたら、どんなに心のケアをしても散歩を好きになることはできません。どうか、行動の変化を「心の問題」と決めつける前に、まずはかかりつけの動物病院で、痛いところがないか、全身をしっかりと診てもらってください。それが、遠回りに見えて、実は最も確実な一歩となるのです。
よくあるご質問(FAQ)
Q1: リハビリには、どのくらいの期間がかかりますか?
A1: これは非常によくいただく質問ですが、正直に申し上げて「犬それぞれ」です。数週間で劇的に改善する子もいれば、数ヶ月、あるいは一年以上かかる子もいます。大切なのは、他の犬と比べず、あなたの愛犬の昨日の状態とだけ比べることです。一歩進んで二歩下がることがあっても、全体として少しずつ前に進んでいれば、それは素晴らしい進歩です。
Q2: 不安を和らげる薬を使った方が良い場合はありますか?
A2: はい、恐怖や不安のレベルが非常に高く、リハビリ自体が困難な場合には、抗不安薬やサプリメントの併用が非常に有効なことがあります。薬は犬をぼーっとさせるものではなく、学習しやすい心の状態を作るためのお守りのようなものです。ただし、これらは必ず獣医師の診断と処方が必要です。自己判断での使用は絶対に避けてください。
Q3: 順調だったのに、また怖がるようになってしまいました…
A3: 大丈夫です、それは失敗ではありません。リハビリの過程で後戻りはつきものです。天候や体調、遠くで聞こえた物音など、私たちには気づけない些細なことがきっかけになることもあります。そんな時は、ご自身を責めずに、愛犬がリラックスできていた数ステップ前の段階から、またゆっくりと再開してあげてください。その経験が、あなたと愛犬の絆をさらに深めてくれるはずです。
まとめ:あなたのペースで、確実な一歩を
最後に、この記事の要点をもう一度確認しましょう。
- 愛犬の恐怖は、あなたのせいではありません。 それは治療が必要な「心の怪我」です。
- 解決策は科学的に確立されています。 「系統的脱感作」と「拮抗条件付け」を使い、焦らず進めましょう。
- 体の痛みが隠れている可能性も。 まずは、かかりつけ医に相談を。
- 焦らないことが、一番の近道です。
あなたこそが、愛犬にとって最高のセラピストなのです。このリハビリは、単に散歩を再開するためだけのものではありません。愛犬のペースを信じ、小さな成功を一緒に喜ぶこの経験は、あなたと愛犬の信頼関係を、以前よりもっと深く、揺るぎないものにしてくれるはずです。
さあ、まずは今日の夜、Step 1の「玄関を見るだけでおやつ」から、遊び感覚で試してみませんか?
その小さな一歩が、未来の楽しいお散歩に繋がっています。
[参考文献リスト]
- 「散歩への恐怖から全般性不安障害になりかけた犬の 1 例」, 日本小動物獣医学会
- 「恐怖症のお話」, 札幌動物行動クリニック
- 「【犬編】第1回:恐怖症|困った行動の解決方法」, 共立製薬株式会社
- 「日本における犬の不安行動に影響する要因の研究」, 麻布大学



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